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かつて20代だったころ、資本主義思想に洗脳され プレジデントという経済雑誌を読んでいましたが その中にはいい記事もありました。 セクショナリズムに関する記事ですが あるスーパーで売り上げが落ちてきて 何が原因かを探るうちに、野菜を担当するセクションや 肉を担当するセクション、魚を担当するセクションが 互いに対立して牽制し合っているという事実にたどり着いたそうです。 そこで、各セクション長を一同に集め それぞれのスタンスを腹蔵なく率直に言わせ、 徹底的に戦わせたところ この問題は解消され、売り上げはもとの状態に戻った。 という記事です。 このようなことは、普通に考えれば そりゃ、そうだろと思いますが 現在の日本社会において、このように 問題を解決するために自分のスタンスを表明し続ける ことがどれだけ難しいかを考えてみたいと思います。 まず、日本には (ここにも↓書きましたが) http://soleguraide.at.webry.info/200711/article_2.html 衝突を避ける文化というのが強力に醸成されています。 それに関して最も奇天烈でおかしな社会通念は この衝突を避ける文化が日本的な”和”を達成するというものです。 言うまでもありませんが、この衝突を避ける文化は 先ほどのスーパーの話のセクショナリズムを醸成する 最大の基盤となるものです。 ですから、日本において最も非合理で 問題をややこしくしているのは この衝突を避ける文化なのです。 この文化がセクションを細分化しお互いに干渉せず 自我を防衛しようとする都市文化と密接に結びつき 正当化されていくのは自然な流れと言えるでしょう。 少し前までの日本では、それを付和雷同と呼び 和して同ぜずの精神とは明確に区別していました。 それが叫ばれなくなったのは、都市文化の勃興が 問題を提議さえさせないほど急激だった ということだと思います。 本当の”和”とは 私たちの国家始原である大和がそうであったように 様々な民族がお互いの思想的スタンスを常に明確に 表現していくことによって、お互いを積極的に認めていくことを 意味しています。 それが合議制の大和であるのです。 ですから、現在の日本社会にある”和”は 不干渉な都市文化と儒教的な思想統制文化が 空想の世界で結晶したオカルト的な”和”なのです。 その文化の下でファシズムは進行し 子供たちは自分たちの精神がなぜここまで 病んでいくのかを知らないまま 自分に嘘をついてファシズム世界に身を投じるか それともファシズム世界と対立し、すさんでいくか このどちらかの道を選んでいくのです。 どちらの道もいばらです。 その”いばら”を知らないのは ”自由と言う名の支配”の下でファシズムを積極的に プロパガンダするTVに映った彼らなのです。 ※”自由と言う名の支配”に関しては下記参照 http://www.loving-earth.com/resonatop.htm |
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