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《JSR運動の一環として》 批判することを排他的とは言うが 最も排他的なのは批判せず衝突を避け 干渉をし合わない文化である。 批判することは、共に社会を創っていくことを前提としているが 衝突を避け批判さえしない都市型の個人主義文化は 社会を共有することさえも前提としない最も排他的なものである。 一般的には、何かを批判し何かを攻撃することは 排他的であると解されるが、もっとタチが悪いのは 批判さえしない、社会と関わろうとしないスタンスを貫くひとたちである。 いかにも自分が社会の共通認識側に立って 批判はいけませんよと言うが、果たしてそれは誰かと積極的に議論して 獲得したものであるのだろうか? むしろ、そういう殻に閉じこもった全体主義者の人たちが 社会を愛なき排他的なものへと変貌させている。 社会を防衛せずに自我を防衛しているだけである。 自我が社会に接続してない未熟なメンタリティーである。 自我とは社会であり、社会批判とは自己批判なのである。 自己批判は自己肯定を行う前に必ず必要なものであり 自己批判し自己を反省・改善できないものには明日はない。 もう一度言うが、自己とは社会である。 それがワンネスであるということは言うまでもない。 愛があるというのは、社会におかしさがあったならば 表現できる立場にある人間が、表現できない人間に代わって 代理批判することである。 体の不自由な人たちが行政の政策に不満があるからといって 充分な批判ができるだろうか? できるわけがない。 五体が満足で弱者にシンパシーを感じるものこそ 不満足な彼らに代わって強者を批判しなければならない。 それが表現者の努めである。 自分の今いる立場に感謝し 表現者としての天命を全うするべきである。 感謝とはそういうものである。 口で感謝・感謝とオウムのように繰り返すことではない。 そういうことがわかっていないスピリチュアリストは 口だけで自己満足オカルト系スピリチュアリストである。 |
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